関西の鉄道駅散歩 ~鶴橋駅周辺~

ふらり散歩

6月の初旬に鶴橋周辺を2度散歩しました。日中と夜でした。

鶴橋は日本と韓国・朝鮮の文化が入り混じる場所という認識でしたが、歩いてみると昭和20年代の建物や区画が残る商店街の魅力を感じました。

一方で再開発できていない場所として残る鶴橋商店街が、この先どういう道を選び進むのか、野次馬にはなりたくないですが、注目しておきたいと思いました。

鶴橋商店街の概要

概要
昭和20年代の建物や区画の大部分が今なお残り、現在も商店街の役割を果たしている。

商店数
700店余り

面積
6ヘクタール弱

取扱
服飾雑貨から食料全般

特色
韓国・朝鮮料理として焼肉やキムチを扱う店舗が増えたのは、1988年のソウルオリンピック開催時に、メディアが鶴橋を取り上げたことに起因している。

成り立ち

戦前は長屋や一軒家、小さな工場や寺院のある静かな街だった。第二次世界大戦の終戦間際に、空襲による延焼を防ぐために行政が定めた区画の建物を強制的に取り壊して空き地にした建物疎開が、鶴橋商店街の下地になっている。
空き地は大戦中、野菜の種などが蒔かれて畑になっていた。終戦後スグ、空き地は闇市になり(昭和20年9月~)、昭和21年に闇市閉鎖令が出されるまで続き、その後は商店街組織が作られ(昭和21年8月)、商店街になっていった。

鶴橋は、国鉄城東線(現在の大阪環状線)と、近鉄奈良線、大阪線、山田線、そして千日前通りを走る市電が通っており、交通の便がよく、闇市には沿線の農水産物が集まっていた。例えば水産物は伊勢や泉州、和歌山、他にも明石や岡山、広島からも集まっていた。

闇市は最初食べ物(薄味のぜんざいやメリケン粉で作った団子汁、米軍放出品のチョコレートなど)が多かったそうだが、正月前にはしめ縄などの正月用品、年明けはカメラや着物も売られていた。

鶴橋商店街は、ここにくれば呉服や食品まで何でも揃うことが人を呼び、卸売りや問屋街として機能していたため、仲卸業者、小売業者、一般客が入り交じった客層になっており、朝早くから夜遅くまで活気のある商店街であった。

昭和30年代には再開発の機運が高まったが、戦災復興事業の対象地域でなかったため、行政による都市整備ができなかった。昭和40年代には再開発の時期を逃したようだ。


奈良や大阪北部に卸売市場が設置されたこと、スーパーマーケットのダイエーの登場、また車社会への移行により鶴橋商店街に大きな駐車場がないため、鶴橋商店街の客が減っていったとされている。

『大阪「鶴橋」物語 ごった煮商店街の戦後史』藤田綾子著、現代書館(2005年) より要約)

鶴橋で撮影した写真

写真はクリックすると大きく表示されるはずです。

おわりに

夜の商店街を歩いたのは20時頃だったと思います。一部の飲食店はまだ営業していましたが、商店街は通行人もまばらで割と静かでした。

写真は照明看板に露出を合わせたため、全体的に商店街が暗い場所であるように受け取られたかも知れませんが、肉眼ではもう少し明るい商店街です。

商店街には防犯カメラも多く設置されており、危ない場所ではないと感じましたが、本通りから一歩細い商店街は照明も弱く、写真撮影には厳しいと感じたため立ち入っていません。

一方で日中の散歩では、人出が多く賑わっている鶴橋を見た印象でした。

また暑さが和らいだころに散歩に出かけてみたい場所でした。

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